錦糸町に咲く花々〜田辺書店のゆかいな仲間たち〜

著:こどころせいじ
貴方は、番目の読者です。

〈お読みになる前に〉
 ――当たり前ですが、作品中のすべてが架空です。現実とは、全く関係のないこと を、ここに明記いたします。
こどころ



プロローグ


 ふう。
 彼女は、薄く紅を乗せた唇の間から、細く息を吐いた。セッティングの整ったオフ 会会場を見渡し満足そうにうなずく。
 セーラムライトをくわえ、火を付けつつ、華奢な手首に巻いたシルバーの腕時計に 目を落とした。〈マリ〉と刻印されたプラチナバンドの逸品――。その輝く文字盤 は、午後十二時三十分をさしていた。
 ――もうすぐだわ。
 ここにこぎつけるまでの過程が、彼女の脳裏をよぎる。初めてオフ会の構想を発表 したのはいつだったかしら……。あの頃は、あたしも若かった――とは言わないまで も、随分昔のことのように思える。予想以上に時間がかかってしまった。ムライさん が専用ページを作ってくれたりして、それで大分助かったけど。
 ふと笑みがこぼれた。
 伝言板などで、さんざんオフ会を呼びかけてきた苦労は、今こそ報われる――幹事 のよろこびはここにあるのだ。そう、彼女は、純粋にみんなの笑顔が見たいのだっ た。決して酒とどんちゃん騒ぎが目的ではない。彼女自身が酒豪であるためか、一部 でそういう誤解を受けていることが、少し残念だが……。
 オホホホ……
 知らず知らずのうちに、上品な笑い声がこぼれていた。確保した和風中華レストラ ンの座敷宴会場に、それは静かにこだました。
 千九百九十九年一月二十三日土曜日。世界に冠たる錦糸町の一角で微笑む美女――
その顔は、満足感にあふれていた。
 そんな彼女の携帯電話が鳴ったのは、進行予定表に目を落としつつ、今回のメイン イベントである「お徒歩」のルートを再確認していたときだった。
「タスケテタスケテ」
 電話に出た途端、悲痛な叫び声が、聞こえてきた。



「あら? あなた、カンさん?」
「そう言うあなたは、もしかしてタンタさん?」
「やだあ、初めまして」
「あはは。こちらこそ初めまして、チャットでいつもお世話になっております」
 錦糸町の駅から歩いて一分のところにある、雑居ビルのワンフロアを占領した和風 中華レストラン「姉妹屋」の前で、慇懃に頭を垂れ合うカン氏とタンタ氏。この二名 が、田辺書店オフ会会場一番乗りであった。
「ここでいいんですよね。タンタさん」
 やや不安げに、「姉妹屋」の看板を指さすカン氏に、タンタ氏は胸を張って答え た。
「そうです。間違いありません」
「じゃ、入ってみますか。ちょっと早いですけど、たぶん、マリさんは、もう待って ますよ」
「そうしましょう。そうしましょう」
 二人は、いそいそと、店内へ入った。
 いらっしゃませ、などとやけに低姿勢の店員に迎えられた。
「田辺書店のオフ会は、どこでやってますか?」
 カン氏の問いに、店員は背後のホワイトボードに視線を投げてから言った。
「マリ様のご予約ですね?」
「そうです」
「こちらを真っ直ぐお進みください」と奥へ手を差しのべる店員。「突き当たりの座 敷が、会場でございます」
 どうも、と軽く頭をさげ、カン氏とタンタ氏は言われた通り、奥へ向かった。「第 一回田辺書店オフ会会場」などと、うやうやしく墨書きされたプラカードが、そこに 掲げてあった。
「マリさーん」
「やっほ、マリさん」
 座敷の引き戸を開けつつ、声をかけるカン氏とタンタ氏。だが、その陽気な声は、 その場で空回りした。
「あれっ、誰もいない」
「ホントだ。マリさんは?」
 四十人ぐらいが楽に入れそうな、広々とした座敷はガランとしていた。人の影がな い。様子からすると、宴の準備は完了しているようであるが、幹事の姿がなかった。 「洗面所かな?」
「まあ、いいわ。上がって待ってましょ」
「そうっすね」
 二人は、あっさりうなずき合った。
「しかし、楽しみだ。おいしいもの、いっぱい食べられるそうだし」
「そうよね。あたしなんか、今日ごはん抜いてきたもん」
「あはは、そりゃすごい。ああ、そう言えば、カホリさんも、昨日のチャットで『も うビビンバ、クッパは嫌だ。オフ会では、シューマイをたらふく食ってやる』なんて 言ってましたよ。もしかしたら、タンタさんみたいに、ご飯を抜いて来るかもね」
「焼き肉屋のバイトって大変ねぇ。香ばしい匂いが、身体に染みついちゃうらしい じゃない。同情するわ」
「何人くらい来るのかな?」
「いっぱい来るみたいよ。マサエさんなんか、お子さんと一緒に来るって言ってた し」
「そりゃ楽しみだ」
 などと、期待にあふれる、お二人であった。

 集合時間の五分前にもなると、座敷に用意されていた席はあらかた埋まり、場は、 大変な賑わいを見せていた。田辺書店を荒らし回る強者たちが、がん首をそろえたの だ。全員のハンドルネームをあげることが、はなはだ困難であるほどの大人数であっ た。
「わっ、あなたが、ケンタさん?」
「ばれてしまいましたか、アハハ。そうです。わたしが、ケンタです」
「まあまあ、これはこれは、いつもお世話になっております。あたしミケです」
「えっ? ミケさん?」と、横からしゃしゃり出たのはカネダ氏。「ミケさんって、 猫かと思ってたら、違うんですね」
「おいおい、カネやん。そんなわけないでしょ。随分と無理のあるボケだなぁ」
 へらへらと言ったのはマル氏。さらにマリスケ氏とカオルン氏が、
「そうよそうよ」
「よく考えてしゃべってね、カネダさん」
 と同調した。
「しかし、ぼくはそういうボケ、好きだな」
 とフォレスト氏がかろうじてフォローした。だがそれもつかの間、
「つまんないけどね」
 とヨチ氏が、冷淡に言い放った。
 場は早くもうちとけた空気に包まれていた。わいわいガヤガヤと、どいつもこいつ も楽しそうである。そのほとんどが、とても初対面とは思えないリラックスしたムー ドだった。
「おい、ムライっち。今度小説送るからよ、また頼むぜ」 「ええ、ええ。是非送ってください」
「アップ遅れるなよ」
「きついなあ、シャカさんは」
 アハハハ、などと、田辺書店管理人の陽気な笑い声もはじけた。首から律儀にスト ラップで吊したカメラを撫でながら、なかなかご満悦の様子である。
 幹事のマリ氏の姿がないことで、統制のとれない参加者たちは、三々五々かたまっ ていた。あちこちで、額を寄せ合う。
「前から不思議に思ってたんですけど」とタロウ氏が、隣の女性に話しかけた。「ピ ロコさんの『ピ』って、一体なんですか?」
「なによ、それ。どういう意味?」
「いえ、なんで、『ピ』なのかなって思って」
「可愛いじゃないの。――ねえ、リョウさん」
「そうそう」落ち着いた態度でうなずくリョウ氏。「タロウさんは、センスがないん ですよ」
「そうや」と関西弁で割って入ったのはカナ氏。「女っちゅうもんはなぁ、いつでも 『美』っちゅうもんを追求する生き物でおます。そこら辺を理解してやらな、あきま へんでぇタロウはん」
「せやせや」やはり西の人間としては、黙っていられないチカゲ氏。「おなご心って もんが、タロウさんはわかっておりまへん」
 たじたじになるタロウ氏に、ヒメ氏がさらにたたみかける。
「女をなめたら、いけんばいタロウどん」まる出しの九州訛がド迫力であった。
 ただ「女をなめたら」の部分に、妙な想像をしたタカギ氏が、ポッと頬を赤らめて いたことは秘密である。
「すいません」
 謝罪する必要などなかったが、ジェントルマンであるタロウ氏は素直に頭を下げ た。
「わかればいいんだよ、わかれば」と、なぜかヤスコ氏が、それを受けた。
「まあまあ」しゅんとしてしまったタロウ氏の肩を叩くトモ氏。「そう落ち込みなさ んな」
「タロウちゃんファイト」などと、およそ心のこもっていない声を掛けたのは、ソウ モン氏だった。
「しかし名前と言えば」とケイ氏がつぶやいた。「ハユウさんも、かなり変わってい ますね。それに、タレパンダさんとかパンダさん。それに、イクさん」
「なんで? かっこいいでしょうが」とハユウ氏。
「そうだそうだ」とパンダ氏。
「だいたい」とタレパンダ氏が、ケイ氏に身体を向ける。「ケイさんだって、アル ファベット一文字なんて安直すぎるよ。もうちょっとひねりが欲しいなぁ」
 ハユウ氏もうなずく。「そうだよ。ケイケイケイさんの三分の一しかないもの」
「多けりゃいいってもんじゃないでしょう」
「まあまあ」とイク氏が割って入った。「たかがハンドルネームじゃない」
「ごもっとも」と同調したのは、チヅル氏だった。「なんだっていいよ。ハンドル ネームなんか」
「でもさ」とイズミ氏が言った。「ミナコさんみたいに、そのままの名前もいいよ ね」
「あたしは」とミナコ氏。「ケイさんみたいに、シンプルなハンドルーム、好きだ な」
「でしょう?」と、たちまち笑顔になるケイ氏。
「でも」と横からハン氏が口を出した。「いまいち、意味がわからないし」
「でもさ、それを言い出したらヨチさんとかナギさんは、どうなるのさ」とサントウ 氏。
「わからなくてもいいんだよ」とヨチ氏が返す。「ハンドルネームなんて、フィーリ ングなんだから。――ね? そうですよね? ハイジさん」
「あたしゃ、ハイジじゃないよ」と、ムッとするクララ氏だった。
 まだ、スタートもしていない宴は、日頃の疑問や、ハンドルネームと顔のギャップ などで、かなり盛り上がっていた。生息地や年齢の違いこそあれ、「宮部ファン」と いう共通事項を持つ強者たちに、遠慮などというものはなかった。
 だが、その「宮部ファン」であることが、参加者のいらいらを徐々につのらせてい た。というのも、彼らのほとんどは、本日の食事を抜いて駆けつけていたからだ。宮 部ファンが抱える「金欠」という病は、宴の食事をあてにする――という、哀しい行 動を参加者たちにとらせていたのだ。
 一同に、空腹が少しずつ忍びより、それは、現れない幹事への不安と不満へ発展し ていった。
「マリさん、遅いわね。どうしたのかしらね?」
 極めて冷静な口調で、参加者の声を代弁したのは、ノラ氏であった。その、落ち着 きのある、りんとした声は、その場に、ジュッと染み込んだ。
「そうだよなぁ。マリさん何やってんだろう」
 密かに自慢しているダイバーウォッチをさり気なく覗くマツフジ氏。彼はなんと、 飛行機で乗り付けていた。
「もう一時をとっくに過ぎてるよ」
 苛立ちを隠せないケイケイケイ氏も、やはり遠路はるばるやって来たくちである。
 場は、にわかにザワつきだした。
「どなたか、マリさんの顔を知ってる人はいませんかー」
 愛用のカメラを首からぶら下げたまま、ムライ氏が立ち上がり、全員の顔を見渡し た。しらなーい、初めて会うんだから知ってる訳ないよ、―――そんな、つれない返 答が返ってくる。
「ムライっちは、知らないの?」
「残念ながら知らないんですよ」愛用のカメラを首からぶら下げたまま、ムライ氏は ゆるゆると首を横に振る。
「そうか、じゃ、探しにいくことも出来ないな」
「もしかしたら、マリさんのことだから、五反田の駅に行っちゃってるんじゃないか な」
 と一応ボケてみたケンタ氏だったが、残念ながら受けなかった。
 そこへ――
「遅れてすいませーん。うふっ」
 という声とともに、勢いよく、引き戸が開け放たれた。全員が一斉に入り口へ注目 する。やれやれ噂をすればなんとやら、という空気が満ちた。だが、その刹那、見上 げたすべての表情に、みそラーメンを頼んだらとんこつラーメンが差し出されたよう な、戸惑いが浮かんだ。
「あれっ?」しばし後、ムライ氏が口を開いた。「あなた、マサエさんでしょ?」
「えっ? どうしてわかったの? もしかして、それって、超能力?」
 自分の名前があっさり露見したことに驚きつつも、宮部ファンらしい台詞を吐くマ サエ氏だった。
「いえいえ、違いますよ」
「じゃ、どうしてわかったの? もしかして、ファイアースターター?」
 驚愕のあまり、よくわからないことを口走ってしまうマサエ氏に、ムライ氏は言っ た。
「だって、マサエさん。お子さんを連れていらっしゃるから」
「あらやだ」手を繋いだお子様を見下ろし、マサエ氏は、うふふっと笑った。「そっ か、ばればれね。――ん? どうしたの皆さん。なんだか、暗い顔しちゃって」
 マサエ氏がやって来たことをうれしく思いつつも、幹事ではなかったことで一同の 顔にはダーク色が浮かんでいたのだ。宴はまだか……腹へった……、との「金欠病」 におかされた者だけが表し得る、沈んだムードが漂っていた。
 情況がわからないマサエ氏は、いぶかしげに参加者を見渡していた。
「いやいや、マサエさん。お忙しいところ、よく来てくれました」
 慌ててとりつくろうムライ氏。管理人らしい律儀さで、幹事のマリ氏がまだ来てい ないことを、簡単に説明した。
「あらまあ、そうでしたか。それはそれは。どうしちゃったのかしらね……マリさ ん」
 心配そうにつぶやくマサエ氏。その横で、突然お子様が、可愛い声を上げた。
「キューキューシャに乗って行っちゃったんじゃないの?」
「おバカね。そんなわけないでしょ」マサエ氏は、お子様の頭をこつんと叩いた。
「え? なんのことですか? 救急車って……」
 管理人らしい律儀さで問うムライ氏。
「あら、いえね」マサエ氏はうふふっと笑った。「総武線各停でここへ来る途中、両 国駅の前に救急車が止まっているのを見つけたんですよ」
「はあ」
「それでね、もう、この子が『救急車見たい』なんて、言うから、わざわざ降りたん ですよ。だから遅れちゃったの。――なんか交通事故みたいでしたよ」
「それで」膝を乗り出すムライ氏の顔に、ちらりと緊張の色が走った。「その救急車 に、マリさんらしき人物が?」
「いえいえ、違いますよ」慌てて否定するマサエ氏。「この子の手を引いて降りたと きは、もう救急車は走り去ってましたから、どんな人が運ばれていったのか、わから ないんですよ」
 じゃあ、関係ないじゃん――安堵のため息が場に満ちた。だいたい、両国駅なんか に今頃マリさんがいるわけないじゃん、などと、声があがる。
「ぼくもキューキューシャ乗りたかった」
「もう、この子ったら」
 お子様の頭をぐりぐりやりつつ、どうも紛らわしいことを言っちゃって、すいませ ん、と頭を小さく下げるマサエ氏であった。
「まあ、それはいいけどさぁ」シャカ氏が言った。その口調から、空腹が彼の神経を 撫でていることは明らかだった。「どうするよムライっち。マリさん来ないんじゃ、 始められないじゃねぇかよ。こちとら四国からやって来たんだぞ」
「いや……そんなこと、わたしに言われても……」戸惑うムライ氏は、膝の上でカメ ラを無意味に触っていた。
「どうにかしてくれよ。管理人でしょうが」
「そ、そうですけど……」困るあまり、ついシャッターなどを押し、自分の脚を撮影 してしまうムライ氏。
「だったら、マリさんを探して来てよ」 「せやせや、あんた管理人やろ」
「そうだ、責任取れ」
「このヘボ管理人め」
 次々に理不尽なヤジが飛ぶ。日頃温厚な人々も、ぐうぐう鳴る腹のため、攻撃的に なっていた。やいのやいのと非難が集中し、身を小さくするムライ氏は、なぜ俺がこ んな目に遭うんだ……との、やりきれない思いに、泣きたくなっていた。
 幹事が現れない――。
 予想だにしなかったこの事態に、第一回田辺書店オフ会は、遭難の危機に瀕してい た。
 と、その時であった――
「おっくれて、ごめーん」
 なんとも陽気な声と同時に、引き戸が勢いよく開いた。
「待ったあ? みんなぁ」
 笑顔の美しい女性であった。先ほどのことが頭をかすめ、慎重になる一同。やはり 代表して口を開いたのは、損な役柄のムライ氏であった。
「あの、あなたは、マリさんですか?」
「そうよ。あったり前じゃない。幹事のマリざんす」
 と両手を広げてみせる女。重そうなシルバーの腕時計が、手首からチラリと覗い た。それは、マツフジ氏のダイバーウォッチ自慢に触発されて、チャットの場でつい しゃべったことのある、プラチナバンドの高級品だった。宝飾商品企画系会社に勤め ていることもあり、「マリ氏イコールプラチナ女」との図式が、田辺書店では確立し つつあるのだ。
「皆さんお揃いですかぁ?」
 自慢の腕時計を、謙遜のつもりなのか、わざとらしい動作で素早く袖に隠し、とこ とん明るい声を出すプラチナマリ。
 参加者全員がどっとはじけた。笑顔が急速に広がる。
「やっと来てくれたぁ」とキウチ氏。
「もう、マリさん。待ちくたびれたよ」とチバ氏。
「どこ行ってたの」とミッチャン氏。
「何してたのぉ」とクララ氏。
「洗面所じゃないよね」とカン氏。
「とにかく幹事さん。さっさと始めようぜ」とトモ氏。
「そうだそうだ。腹へった」とマル氏。
 と言った次第で、予定の時間を三十分ほど過ぎて、記念すべき、第一回田辺書店オ フ会は、スタートしたのだった。



 遅れてやって来たことは減点だが、幹事としてのマリ氏は非常に有能であった。進 行表を眺めながら、テキパキと指示を飛ばすその姿は、日頃チャットで「高度な人工 無能」などと揶揄される人物とは到底思えなかった。
 シューマイなどを頬ばり、目をギラギラさせ、「はい、次は、マリスケさん」
「えーと、カギネコさんの次は、エッコさんね」などと、ひとりずつの自己紹介を、 見事にとり仕切った。
 自己紹介が終わると、「わたしと宮部作品」という題目で、全員に、五分間スピー チを強要した。
 だが、これはさすがに「恥ずかしい」との声が、ちらほらあがり、参加者たちは難 色を示した。シューマイを頬ばったマリ氏は、しかし、くじけなかった。スピーチを 拒否する輩のひとりに、「ちょっと洗面所へ来て」と優しく声を掛けた。しばし後、 青あざを作ったその参加者と、あくまで笑顔のマリ氏が肩を組んで帰ってきたときに は、もう、五分間スピーチを拒否する者はいなかった。非常に進行能力に長けた幹事 なのであった。
 だが、それが破滅を生んだ。
「マリさんって、なんか怖いわね」
「そうだね。チャットじゃ優しい感じなのに、人は会ってみないとわからないね」
 などと、陰でヒソヒソ言いあう参加者もいた。全員、どこか、マリ氏の強引な進行 に首をかしげていた。
 そんな中、鋭かったのは、やはりノラ氏だった。
「ねえ、マリさん!」
 突然立ち上がり、大きな声で幹事を呼んだ。場が、すっと静まったのは、あまり に、その声がとげとげしかったからだ。ノラ氏自身、それを意識しているようだっ た。
 まるで、法廷における検事のごとき威厳を放つノラ氏に、マリ氏は、キュートな笑 顔で応じた。
「なあに、ノラさん」
「化粧品は、どこのを使ってるの?」
「え?」
「化粧品よ。どこのメーカー使ってるの?」
「どうしてそんなこと訊くの?」その声には、明らかに狼狽が含まれていた。
「だって、マリさん随分お若く見えるから」
 その一言で、場にさざ波が立った。
 そう言えばそうだな……、マリさんって、確か三十うん歳じゃなかったっけ……、 そうだよ、チャットでそんなことを言ってたな……、おかしいな……、せいぜい二十 代前半にしか見えないよな……。
 参加者の囁きが、さらに囁きを呼び、それが「疑惑」となるのに、さほど時間はか からなかった。
「ねえ、マリさん」ノラ氏は正面から切り込んだ。「あなた本当に、マリさん?」
「当たり前じゃない。マリだす」
 言い返す幹事。だが、引きつった顔は隠せなかった。マサエ氏のお子様の方がもっ と嘘をつくのはうまいだろう、と思われるほどだった。
「あなた何者?」ノラ氏の言葉は厳しい。
「あ、あたしは、マリ――」
「いいえ、違うわ。あなたは、マリさんじゃない」
「何を証拠にそんなことを言うのよ。あたしは幹事よ。マリざんす!」
 敵意をむき出す幹事に、ノラ氏はつかつかと歩み寄った。そして、その左腕を、い きなりグイッとねじり上げた。どうやら、ノラ氏が護身術を身に付けているらしいこ とは、子供の目にも明らかだった。
「いたたたっ、何すんのよ」
 騒ぐ幹事。それに構わずノラ氏は、シルバーの腕時計にじっと見入っていた。そし て、その数秒後――
「謎はすべてとけた」
 と、宮部ファンとしては、いささか不謹慎な台詞を吐いた。
「ちょっとどういうことノラさん」
「そいつは、マリさんじゃないのか?」
「説明してよ。ノラさん」
「『謎はすべてとけた』なんて、もったいぶらないでさ」
 次々に声が上がる。ノラ氏は、そんな参加者たちの声を噛みしめるようにして聞い ていた。
 幹事――いや、そのうなだれた姿からは、彼女が幹事ではなく、ましてやマリ氏で もないことは間違いなかった。参加者が答えを求めるのも当然だった。
「彼女は」と、ノラ氏は言った。「マリさんじゃありません」
「なにか、確証でも?」意外と冷静なムライ氏が、いち早く訊いた。
「腕時計よ」ノラ氏は、ニセ幹事の手首に視線を投げる。「ほら見て。傷だらけよ。 マリさんが、こんなものを身につける訳ないわ。あんなにチャットで自慢してたんだ もの」
「どれどれ」などと呑気な声を出して、確認してみるムライ氏。「あっ、ホントだ。 傷だらけ」
 無数の引っ掻き傷がついたプラチナバンドの腕時計は、ただの金属の破片のような 無惨な姿をしていた。かろうじて〈マリ〉と打たれた刻印が読みとれる。
「変な感じだったのよ」自信満々のノラ氏。「やってきてすぐのとき、なんか、あわ てて隠したように見えたし」
 鋭い観察力であった。
「なるほど。では、この方はいったい……」
 ムライ氏がつぶやいた当然の疑問は、瞬く間に、場に満ちた。何しに来たのか? 
こいつはいったい何者だ? 北村ファンのスパイでは? などと様々な憶測が乱れ飛 ぶ中、敢然とノラ氏は言った。
「いいえ、みなさん。彼女は――」と、うなだれたニセ幹事に視線を投げる。「ごく 普通の宮部ファンよ。わたしたちと同じ、宮部作品をこよなく愛する同士よ」
「ど、どうしてそんなことまで……。じゃ、その方はいったい誰なんですか?」や や、うろたえるムライ氏。
「彼女は――」ノラ氏の目に、暖かいものが宿った。「カホリさんよ」
「え?」とマサ氏。
「なんだって?」とカギネコ氏。
「か、カホリさん?」とエッコ氏。
「どうして?」とヒサヲ氏。
「どういうこと?」とユカママ氏。
「あ、あのノラさん」騒然となる中、ムライ氏が訊いた。「カホリさんと会ったこと があるんですか?」
「いいえ、今日が初めてよ」
「だったら、なぜ」
「焼き肉の匂いよ」
「へ?」
「ほら、彼女、焼き肉の匂いがするじゃない。カルビの香りが強烈ね。それとビビン バの匂いも少々」
「そう言えば、カホリさんは焼き肉屋でバイトをしてましたね」
 満足そうにうなずくノラ氏。「そういうこと。――ね、そうでしょカホリさん」
 ニセ幹事は観念した。
「ふふふ……。ばれちゃ、しょうがないわね」
 一同を見渡し、ニヤリと笑うニセ幹事。
 場の全員に悪寒が走った。姿を現さないマリ氏――。傷だらけのプラチナ腕時計 ――。そして、その腕時計を奪ったと思われるニセ幹事――。
「どういうことだ! じゃ、マリさんは一体……。あ、あんた、カホリさんなのか?  そうなのか? ちゃんと説明しろ」
「ふふふ……。そうよ。あたしはカホリよ。焼き肉カホリよ。初めまして。好きな宮 部作品はステップファザー・ステップかな。さとし君とただし君が、もう、かわいっ くて――」
「いやいや、そんなことより」意外と冷静なムライ氏がさえぎった。「じゃあ、本物 のマリさんは、いったいどこへ……? それに、どうしてカホリさんが、マリさんの 腕時計を?」
「ああ、そうだったわ」
 カホリ氏はぺろりと舌を出し、自分の頭をポカリと殴った。そして、出し抜けに表 情を沈鬱なものに変えた。
「ごめんなさい、みなさん。あたしのせいでマリさんは出席できなくなったの」
「どういうことですか?」
 カホリ氏は目を潤ませた。「実は……マリさんは……マリさんは……マリさん は……」
 呪文のように「マリさんは」と繰り返し、ぐっと息を呑んだ。そして言った。
「……マリさんは、救急車で病院へ運ばれたの」
「え? 病院?」驚く一同。
「そうなの。車にはねられちゃったの。あたしのせいで……」
 うつむくカホリ氏は、ぼそぼそと語った。
 それによると、カホリ氏が錦糸町へ来る途中、間違って両国駅で降りてしまったこ とが原因だという。
「あたし、駅を出たときに、『あっ間違えた』って気づいたの。でも、もう一度電車 に乗ろうとして財布をみたら、八十円しかなかったの」
 だから、マリ氏の携帯電話にSOSを発信したという。
「それで、マリさんが、走ってむかえに来てくれたの。あたしは、そこら辺で拾った 赤いバラを胸に差して、駅前で待ってたの」
 で、走ってきたマリ氏は、両国駅の前でポツンと泣きそうな顔で立っているカホリ 氏を発見した。
 そして――
「マリさん、あたしを見つけて駆け寄ってこようとしたの。それで道路に飛び出し ちゃって」
 はねられたという。
 なんてこったい……そんな、しんみりした空気が、オフ会会場を支配した。
 カホリ氏は続ける。
「あたしマリさんを助け起こしたの。『大丈夫?』って訊きながら」
 するとマリ氏は、震える岩ならぬ、震える唇でこう言ったという。
 ――あたしの代わりに幹事をやってくれ。
 しかも、事故のことは、みんなに伏せておいてくれ、と頼んだという。なぜなら、 「せっかくのオフ会を台無しにしたくない」からだそうだ。遠くから来た方もいるの に、自分の事故ごときで、無駄足にさせたくない――
「だからね、あたし、何が何でもマリさんの意思をつぎたかったの。慣れない進行に 焦るあまり暴力的になったのも、そんなわけなの。許してね」
 カホリ氏の話してくれた、マリ氏の健気さが、一同の胸を打った。
 真っ先に涙をこぼしたのは、マサエ氏であった。つられて、絵本の「バーバパパ」 などを読んで、感受性豊かに育っているお子様も涙ぐんだ。
「うおお!」絶叫するケイケイケイ氏。「そ、そこまで、オフ会のことを……。ま、 マリさーん!」
 救急車に乗せられる直前のマリ氏から、傷だらけになってしまった腕時計と進行表 を手渡された話を終えると、カホリ氏も耐えきれず落涙した。
「で、でも」遠慮がちにムライ氏が訊いた。「大丈夫なんですよね、マリさん。大し た怪我じゃないんでしょ?」
「たぶん」うなずくカホリ氏。「詳しいことはわからないけど、『打撲です』って救 急隊員は笑ってたし、それにマリさんも、加害者から慰謝料をたんまりふんだくって やるって息巻いてたし」
「なら、大丈夫だ」
 ホッとした様子の一同。
 そして、次の提案が出るのは、宮部ファンとして当然だった。
「よし! じゃあ、お徒歩のルートを変更して、マリさんの病院まで、これからお見 舞いに行こうぜ」
「おお、それはいい考えだ」
「そうしよう、そうしよう」
 たちまち全員が賛同し立ち上がった。
 かたい絆で結ばれた者同士しかたたえることのできない光が、一同の目に宿ってい たという。
 千九百九十九年一月二十三日土曜日――。
 この日、錦糸町は、花も息吹くほど、あつかった。それは、決して近年の異常気象 のせいではなかった。

〈お読みになられた後に〉
 ――しつこいですが、作品中のすべてが架空です。

こどころ

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