迷走誘拐犯

著:こどころ せいじ
貴方は、番目の読者です。



「北上さんのお宅かい?」
「はい、そうですが。どちら様ですか?」
 返ってきたのは女の声だった。どうやら母親らしい。
「あんた、奥さん?」
「そうですが。おたくどちら様?」
 いたずらかも知れないと勘ぐっているのだろう。母親の声はとげとげしかった。
 村田は鼻で笑った。
「旦那さんを出してくれ」
「うちには、そんなものいません。――お宅どちら様?」
「そうか、旦那さんはいないのか。じゃあ奥さんでいいや。いいかい奥さん良く聞き なよ。お宅のお子さんをあずかってるんだけどね」
「え?」
「え、じゃない。お宅の息子を俺があずかってるんだ」
「………」
「お宅、翔太って言う息子がいるだろ?」
「……はい」
「俺があずかってる」
「………」
「解るか? つまり誘拐したってことだよ」
 村田は余裕の笑みを浮かべながら、くわえた煙草に百円ライターで火を付けた。そ して、煙を吐きながら「五百万だ」と言った。
「五百万でいい。無事に子供をかえして欲しければ、五百万円用意しろ」
「………」
 よほど驚いたのだろう、母親は言葉を失っている様子だ。
 愉快である。物事を要求できる立場とは、実に愉快なものだ――村田は、緑色の受 話器を耳に押し当てたまま、生まれて初めて体験する主導権を握るよろこびに、だら しなく頬を緩めていた。
「おい、わかったか?」口調はますます高慢になった。「大事な子供を死なせたくな いだろ?」
 母親は応えない。
「おい、聞いてるのか!」
「えっ、……ええ、はい。聞いてます」
 満足だった。自分の怒鳴り声に相手があわてる――なんと気持ちのいいものだろ う。特に相手が金持ちであれば、なおさらだ。
「お宅は金持ちだそうだな、え? 子供から聞いたよ。五百万くらいすぐに用意出来 るだろ?」
「はい。五百万くらいなら、今からでも用意できますが……」
「よし、なら話は早い――」
「ちょ、ちょっと、お宅どちら様?」
「はぁ? 奥さん……あんた気が動転してんのか? ――よく考えてくれよ。わざわ ざ名乗る誘拐犯がいるわけないだろ」
「それはそうですけど、あなた、どちらにおかけですか?」
「なに?」
「いえ、番号をお間違えではないですか?」
「え?」声が裏返った。「だってお宅、北上さんでしょ?」
「確かにうちは北上です」
「……八歳の息子がいるよな?」
「八歳の一人息子がいます」
「名前は、翔太君だよね?」
「翔太です」
「………」
「………」
「その翔太君を俺があずかってるんですけど……」
「うちの翔太は、今、ここでテレビを見てますけど。七時から始まったマンガを見な がら笑ってます」
「………」
「………」
「……また、かける」
 ガチャンと受話器をフックに戻し、テレホンカードを抜き取ると、村田は電話ボッ クスを飛び出した。吸いかけの煙草を投げ捨て、暗がりに停めてある、十年前手に入 れたときからボロだった愛車に向かう。
 視界が暗く、ドアの取っ手の位置を探るのに苦労した。
 夜にサングラスを掛けると景色が見えにくい――などと、当然のことを実感しつ つ、車に乗り込んだ。
 後部座席には、両手両足を縛られ口をガムテープで塞がれた男の子が横たわってい る。
 男の子は、村田の顔を興味深そうな目でじっと見つめかえしてきた。
「おい、小僧。おまえ嘘をつきやがったな」
 子供はプルプルと首を横に振った。一見、怯えているようにも見えるが、どこか面 白がっているような目をしている。なんとなく馬鹿にしているような……。
 むかついた。こんなガキに騙されたことがどうにも腹立たしい。
 村田は、子供の口に手を伸ばした。
 ベリッ
「イタタタタッ」
 ガムテープを剥がすと、子供はバタバタした。手足を縛られているから、その動き は、釣り上げられたマグロのようだった。
「小僧。もう一度名前を言ってみろ!」
「おじちゃん、僕、嘘は言ってないよ」
 おじちゃん、というのが村田の気に障ったが、それを言うとややこしくなりそうな ので、とりあえずは我慢した。
 急がねばならない。
「名前は?」
「北上翔太だよ、おじちゃん」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃないよ、おじちゃん」
「どういう字を書くんだ、あん? 言ってみろ」
「東とか南とかの『北』に、上下の『上』、飛翔の『翔』、大きいにチョンをうった 『太』だよ、おじちゃん」
 よどみなくそう言ってのける子供に、正直驚いた。「飛翔の翔」なんて、三十歳を とっくに過ぎた村田でさえ、すぐに出てくるかどうか自信がない。
「じゃ……じゃあ、母ちゃんの名前は?」
「北上由美子、三十八歳だよ、おじちゃん」
 おじちゃんおじちゃんとうるさいガキだ。「じゃあ、父ちゃんの名前は?」
「いないんだよ、おじちゃん。お母さんの方が偉いから、お父さんは立場がなくなっ て逃げたんだよ、おじちゃん」
 父親はいない――さっき電話に出た母親もそんなことを言っていた。
「じゃ、じゃあ、ぼうず」頭が混乱してきた。「もう一度お前の家の電話番号を言っ てみろ」
 子供は、十桁の番号を早口に言った。その番号は、さっき村田がメモしたものと同 じだった。
「間違ってないだろ、おじちゃん。でたらめじゃないんだよ。僕は嘘はつかないんだ よ。わかったかい? おっさん」
「ぐっ……」 
 こ、こらえろ、相手は子供だ。村田は自分にそう言いきかせた。



 子供をさらってきたのは、つい三十分前のことだ。
 塾から帰宅途中のところを捕まえ、無理矢理車に押し込んだ。その際、ガムテープ で口を塞ぎ、手足を縛ったのだが、それでも暴れ続けてほとほと手を焼いたのだ。
 だが、それはいい。そこまでは計画通りだった。
 高級住宅街を物色し、目に付いた子供を素早く誘拐する。そして電話番号を聞き出 し、すぐに金を要求する。
 金額は「五百万円」と決めていた。とにかくスピードを重視したのだ。確実に金を 奪えるなら、二百万円でも百万円でもいいとさえ村田は考えていた。
 誘拐の身代金にしては数百万円は安いが、受け取れなければ意味がない。相手がす ぐに用意できる金額で我慢して、速攻で金を奪うのだ。
 あれこれ時間をかけて考えても結果は「吉」とは出ない――競馬で人生を誤ること と引き替えに学んだこの教訓を、村田は誘拐に応用した。
 予定では、脅迫電話で驚いた相手は、すぐに村田が指定した場所へ駆けつけるはず だった。
 身代金の受け渡し場所は、住宅街から車で三十分ほどの河川敷。それを二十分で走 れと指示する。こうすれば、相手は警察に通報する時間もないだろう。たとえ通報さ れても、警察はまともな配備など出来ない。
 そして、村田はゆうゆうと指定場所へ出て行き金を受け取る。彼は単独だが、あら かじめ電話で複数犯であるかのようにほのめかしておく。よって相手は手出しが出来 ない。
 金を受け取ったら、すぐに車で北へ旅立つ。
 その途中、子供を適当な場所で解放して、そのまま村田は失踪する。そして、奪っ た金を元手に、新天地で生活をたて直す――
 人生の再起を賭けたわりには、少々短絡的に過ぎる計画だった。
 その、一か八かの計画は、予想だにしなかったハプニングに直面し、早くも立ち往 生した。
 ターゲットを決め、よく下調べをしてから行動すべきだった――村田はこの時点に なって後悔していた。
 脅迫相手がわからない。これではどうしようもないではないか。
 さらってきた子供は、「北上翔太」と名乗った。電話番号も聞きだした。母親と思 われる女が電話に出た。しかし、相手は自分の子供はちゃんと家にいる、と言った。  いったいこんな事態を誰が予想できようか。
「僕は嘘を言ってないよ」
 子供はわめいた。
「僕は『北上翔太』だよ、おっさん。バッグの中を見てよおっさん。教科書に僕の名 前が書いてあるよ」
 その言葉にしたがい、村田は助手席に手を伸ばした。勉強道具を入れるバッグを開 けてみる。
 車内灯を点けて確認しようとしたが、それは危険だと思い直した。ウインドウには 遮光フィルムを張っているが、光源が車内にあると外から見える恐れがある。周囲に 人影はないが、ここは慎重を期さねばならない。
 人質を監禁できる場所がないことは、なんとも不便なものだった。
 村田は、仕方なくバッグを手に、十メートルほど離れた電話ボックスまで赴いた。
 蛍光灯のあかりの下では、サングラス越しでも、文字を読むことができた。

〈二年二組 北上翔太〉

 筆箱、教科書、ノート。出てくるものすべてにそう書いてあった。
 ますます混乱した。
 普段から偽名の入った物を持ち歩くはずなどない。それに、本人でなければ、あれ ほどすらすらと家族のことを言える訳がない。
「じゃあ、さっきの電話はなんだ?」
 車にもどり、威圧感のかけらもない声で訊いた。
「お前の母ちゃんが出て、うちの翔太はちゃんと家にいるって言ったぞ」
「おっさんが番号を押し間違えたんじゃないの? よそんちに掛かったんだよ。おっ さんが間違ったんだよ、おっさんが悪いんだ。おっさんは悪者だ。だから、おっさん なんだ」
 沸騰してカタカタ鳴っているやかんの蓋を、力ずくで押さえつけたような気分を、 村田は味わった。
 ふう、と熱い息を吐く。
 ヒートした脳味噌で考える。
 このガキが言うように、俺が番号を押し間違えたのだろうか? いや、そんなはず はない。俺だって、ゆっくり番号を確認しながらプッシュしたんだ。一世一代の大勝 負だ。間違えないように気を付けた。それに、ちゃんと、「北上家」につながったで はないか――
 険しい顔で煙草をくわえると、火を付けてスパスパ吸う。そのせわしない動作に村 田の焦燥がよく出ていた。
 窓を閉め切った車内に煙はたちまち充満したが、そんなものを気にする余裕など、 村田にはなかった。
 この子供は確かに北上翔太で、しかも、でたらめの電話番号も言っていない。少な くとも嘘と指摘できるところがない。そして、俺も間違ってはいない。とする と……。
 母親が何か勘違いをしているのだろうか? 例えば、この「北上翔太」の兄弟と ――。
 いや、そんなことはない――村田は首を振った。
 一人息子はテレビを見て笑っている――相手はそう言っていた。
 一人息子だ。しかもテレビを見てげらげら笑っているのだ。幻でも見ていないかぎ り、そんなことを言えるはずがない。
「おっさんが間違ったんだよ。番号を押し間違えたんだよ。しっかりしてよ、おっさ ん。自分の失敗を人のせいにしちゃいけないってマリコ先生がいつも言ってるよ。マ リコ先生は美人なんだ。僕はマリコ先生が好きなんだ。マリコ先生はいつも、嘘をつ いちゃいけないって言うんだ。だから僕は嘘をつかないんだ――」
実にうるさい。
 人が一所懸命考えているときは静かにするのが常識だ――村田はタバコのフィル ターをギリギリ噛んだ。
 だがしかし、この子供が嘘を言っていないことは認めざるを得ないようだ。
 誘拐されて嘘の電話番号を言ったところで、なんの益もないことぐらい、いくら八 歳の子供とはいえ分かるはずだ。
 我が身を犠牲にして、家の金を守ろうとする――そんな自己犠牲の精神をはぐくん だ八歳の子供が、この現代日本に存在するとはとても思えない。特にこのいまいまし いガキが、そんな「純」な心を持っているはずがない。
 悔しいが、どうも自分が番号を押し間違えたようだ――村田はたぎる頭でそう結論 を下し、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
 ただ、こんな偶然があるだろうか?
 間違った番号を押して、たまたま同姓の家へ掛かってしまうなんてことがあり得る だろうか?
「北上」という名字は確かに珍しくはない。だが、「佐藤」や「鈴木」に比べれば ずっと少ないだろう。北上家に電話を掛けようとして、違う北上家へ掛かってしまう なんて、宝くじで一千万円が当たる確率より低いのではないだろうか。さらに、その 北上家に「ショウタ」という八歳の子供がいる確率となると、三億円を当てることよ り難しそうだ。
 そう考えると、何かもったいないような気がする村田であった。
「なんでもいいから、早くしてよ、おっさん。五百万円でも、五千万円でも、五億円 でもいいから、さっさと取る物取って、ぼくをこんな汚い車から出しておくれよ。
――お金ならうちはいっぱい持ってるんだ。ぼくのお母さんは、会社の社長だもん、 とってもお金持ちなんだ。五百万円くらい、はした金だよ。おっさんにとっちゃ、目 玉が飛び出すような大金かもしれないけど――」
 誘拐事件で被害者が殺されるのは、顔を覚えられたりして、犯人にとって非常に危 険だからである。
 だが、今、村田は、三日前コンビニで買った、税別九百八十円のミラーサングラス を掛け、おまけにカツラまで着用している。
 しかも、このカツラは、仮装用の「お遊びカツラ」とはわけ違う。本当にハゲで悩 んでいる人達が使用する一流メーカーの、高級品だ。
 村田は、この日のために貯金をはたいてこれを手に入れたのだった。新しい人生の ための自己投資といえよう。
 本当は頭のてっぺんがかなり薄く、哀愁がただようほど老けて見えるのだが、カツ ラをかぶっている今は、彼自身、鏡を覗いてニンマリしてしまうほど若返って見え る。
 八歳の子供に、村田の本当の人相は分かりようがない。
 この車にしても、いわゆる大衆車だ。もちろん、ナンバーだって見られていない。  総じて、警察に捕まる恐れは今のところまったくない。人質の首に手を掛ける必要 など、爪の先ほどもない。
 だから、村田が今抱いている「殺意」は、純粋に馬鹿にされていることに対してで ある。
「でも、おっさんも大変だね。こんな事しなきゃお金を稼げないなんて――なんだか 哀れだよ」
 なめられている……こんな子供にさえ俺はバカにされている。
 借金取りには「逃げるんじゃねえよ、このハゲ」と追い込みをかけられ、同僚から は「仕事もできないくせに、ハゲ頭だけは社長並だな」と冷笑される――そんな、胃 壁に穴が空きそうな生活にサヨナラを告げるための大博打の途中でさえ、バカにされ ている。
 悔しい。
 人質の子供ぐらい震えさせることができなくては、新天地においても、悲劇は繰り 返されるだろう。
「だ、だまれこのガキ。殺すぞ!」
 意を決し、カツラが揺れるほど怒鳴ってみせた。だが、情けないことに声が完全に 裏返り、まるでヨーデルのようになってしまった。女子中学生が脅しをかけても、こ れほど格好悪い有様にはならないだろう。
 当然、子供はまったく動じた様子を見せなかった。それどころか、ますます余裕 しゃくしゃくだ。寝転がったまま涼しい顔をしている。
「僕を殺したら、おっさんは警察に捕まったとき死刑になるよ。そんなの嫌でしょ?  殺さない方がいいよ。――あっ、でも、死刑になって死んだら、生まれ変われるか もね。お金持ちの家に生まれるかもしれないよ。そうしたら、おっさんもこんな事し なくていいじゃん。僕を見習って、会社の社長をしてる人に産んでもらえばいいよ。 あっ、でも、社長の子供も結構大変なんだよ。僕なんか、もうお母さんの仕事を勉強 してるんだ。学校の勉強もして仕事の勉強もしてるんだよ、すごいでしょ。毎日大変 だよ、エヘヘヘヘ。でも跡取り息子だからね。おっさんと違って将来に不安はない し、それに――」
 これ以上聞いていると気がおかしくなると判断した村田は、再びガムテープを使っ て、音源を塞いだ。
 
 十分後。
 再び見つけた人けのない電話ボックスの蛍光灯に、村田は頭から照らされていた。
 体の自由も利かない八歳の子供におちょくられた情けなさで手が震え、テレホン カードを差し込むことにさえ骨が折れる始末だった。
 北上家の十個の数字を押し終えたときには、額に玉の汗が無数に浮いていた。
 呼び出し音二回で、「もしもし」と相手の声が聞こえてきた。だが、その声を聞い て村田は少し放心した。放心した彼の額からは、重力に逆らえないほど大きくなって しまった汗がポロポロと転がり落ちた。
「――どちら様ですか?」
「……あの……北上さんのお宅ですか?」
 文鳥のヒナが鳴くような頼りない声でそう訊くと、受話器の向こうから、うんざり した気配がはっきりと伝わってきた。
「もう、またあんたね? いたずら電話はやめて下さい!」
「い、いや、いたずらじゃない」村田はあわてた。「いたずらじゃないんだ。俺はあ んたの息子を本当に誘拐したんだ。は、早く身代金を用意し――」
「いい加減にして下さい。うちの翔太はちゃんとここにいます」
「う、嘘だ!」悲痛な叫びだった。「いるわけがない。俺が翔太とか言う子供をあず かってるんだ!」
「なんで、あたしが嘘をつくのよ? 嘘なんかつくはずがないでしょ」
「うっ……」
 そうだ。そのとおりだ。子供を誘拐されているのに、そんなことはないと言い張る 親なんているわけがない。
 だけど……。
「もう、二度と掛けてこないで――」
「あ、あの、北上さん」村田は泣きたいのをこらえて言った。「悪いんだけど、そ の……翔太君の声を聞かせてくれませんか?」
「はあ? あんた、頭が少し変なんじゃないの?」
「お願いです。ほんの少しでいいから、翔太君の声を聞かせて下さい。ほんの少しで いい」
「今度掛けてきたら、警察に連絡するわよ!」
 ガチャンと電話は切れた。
 村田は、受話器を力なく握ったまま、しばらく白目をむいていた。
 どうなってんだ? いったいぜんたいどうなってるんだ? 
 なぜ、誘拐犯の俺が、子供の声を聞かせてくれなんて懇願しなきゃならないんだ。
逆じゃないか。
 目が潤んでいた。
 警察のことにしてもそうだ。普通なら俺が、「分かってるだろうが、警察には連絡 するなよ」って言う立場なのに、向こうからすすんで「警察に連絡するわよ! ガ チャン」ときたもんだ。
 かろうじて、黒目を取り戻した村田の瞳から涙が一粒こぼれた。
 どうしよう……どうすればいいのだろう……。
 悩む彼は、カツラの下で髪の毛が数本抜ける気配を感じた。



「相手が悪かったな」
 椅子に座ったままうなだれている村田に、ロマンスグレーの刑事はそう言った。ど こか笑いを伴ったその声は、取調室にやたら大きく響いた。
 事件は異例のスピード解決をむかえたのだった。
 手ぶらで北へ走る車の中でラジオを聴いた村田は、もう逃げられないと観念して警 察に出頭してきた。事件発生からわずかに六時間後のことであった。
 カツラを奪われ、「孵化したばかりの文鳥のヒナ」のような姿で写真を撮られた彼 は、そのままこの殺風景な部屋へ連れてこられ、刑事に向かい合っていた。
 かなりの年輩のくせに自分とは対照的に豊富な頭髪をした相手に村田は訊いた。
「あの、刑事さん、教えて下さい。どうして、あの母親は自分の子供は誘拐されてな い、なんて、とぼけたりしたんですか?」
 脅迫電話は、やはりちゃんと北上翔太の家へ掛かっていたのだった。子供は嘘をつ いていなかった。村田も番号を押し間違えたわけではなかった。
 ただ、母親が嘘を突き通していたのだ。
 ロマンスグレーの刑事は、村田の真剣な顔に、笑いながら説明した。
 ――とぼけてしまえば、犯人に打つ手はなくなる。
「脅迫電話を受けた翔太君の母親は、とっさにそう判断したんだそうだ」
 会社で部下の身上を把握する際の心理操作ですよ――そう言って、事情を聞いた刑 事ににっこり微笑んだという。
「大したもんだよなぁ」
 ロマンスグレーは「アハハ」と笑った。
「会社を切り盛りするような人は、一般人とは頭の切れが違うってことだな」
 母親は、電話の声から、誘拐犯人の性格を、「気は小さく、思慮が浅い」と鋭く分 析していた。
子供を誘拐された事実を認めなければ、犯人は途方に暮れるしかないだろう。そう すれば人質を殺すことは出来ないのではないか?
 すぐにそう発想したという。
 誰でも、何も出来ずに、ただ殺人犯になるのは抵抗があるはずだ。ましてや、気の 小さな人間なら。
 そうだ。知らぬ存ぜぬで押し通せば、子供は殺されないで済む可能性は高い。少な くとも、金を手に入れ、欲を出した犯人が、身の安全のために子供を殺してしまう可 能性に比べれば、その方がずっと低い。
 ――だから、絶対に金を渡してはならない。
「母親は、そう考えたって言うんだから、恐れ入るだろ? ほとんどビジネス感覚だ よ。お前がいくら頑張ったところで、結果は同じだったろうな」
 さらに、母親は犯人を「ネズミ」にたとえてこう言ったという。
 ――「敵」はネズミだ。ネズミに噛みつかれたくなければ、その退路を残しておか ねばならない。
「だから、警察にも報せなかったのだそうだ。いや、まいったまいった」
 全然まいった様子を見せず、ロマンスグレーは自分の後頭部をポンポン叩いた。
 結局、母親が短い電話のやりとりの間に「断固とぼけよう」と計算した時点で、村 田の計画は破綻していたのだった。
「――とまあ、そういうわけだ。お前にとっちゃ、相手が悪かったってことだな」
 説明を終えてもまだ笑顔を崩さないロマンスグレーであった。
 村田は頷いた。そういう女が妻だったら、生活もさぞかし辛いだろうな。逃げた旦 那の気持ちも解るってものだ――と変な部分で納得していた。
「でも、刑事さん」
 しばし後、村田は真顔で訊いた。
「すごい母親だということはよく分かりました。刑事さんのおっしゃるとおり、俺に とっては相手が悪かったんでしょう。――ですけど、どうして犯人が俺だって分かっ たんですか? 子供には顔を隠してたし、解放するときも、ちゃんと目隠しをして道 端に置き去りにしたんですよ」
 村田は、北への逃走開始から三時間後に、カーラジオを通して自分の身元がばれて 緊急指名手配されたことを知ったのだった。
 刑事はロマンスグレーを揺らしながら、まだ笑っている。
「不思議か?」
「ええ、不思議です。教えて下さい」
「子供がな、――あの翔太君がな」
「はい」
「お前がカツラを使用していたことを見抜いてたんだ」
「え?」
「母親に似て鋭い子供だよ。翔太君は保護されてすぐ『犯人はハゲです』って言った そうだ」
「そんな馬鹿な……」
 村田の瞳は半ば白くなった。
「凄く精巧なカツラですよ。自分で何度鏡を見ても、まったく地毛と見分けがつかな いほどです。八歳の子供にばれるはずがない!」
「だが、ばれたんだ」
 鼻歌でも歌い出しかねない表情で、刑事は自慢げに自分の髪の毛を手櫛でといた。
 その余裕たっぷりな動作に少しムッとしながら村田は続けた。
「それに……、もし俺がハゲだとばれても、あんなに早く指名手配できるわけありま せんよ。俺がどこの誰だか判るはずがない」
「翔太君を保護して二時間後には、お前の身元は判明してたよ」
「そんな馬鹿な! そんなに早くばれるわけがない!」
「まあまあ、そう興奮するんじゃない」
 ロマンスグレーは、声の裏返った村田をなだめ、ゆったりした動作で椅子にふんぞ り返った。
「翔太君の母親は社長なんだよ」
「知ってますよ。あの生意気なガキが得意そうに言ってましたからね」
「なんの会社か知ってるか?」
 その質問に、村田は声を詰まらせた。
「……いえ、そこまでは、知りません」
「カツラメーカーだよ」
 刑事は実に嬉しそうだった。
「母親は、カツラの製造販売およびアフターケアサービスの会社を経営してるんだ。 翔太君は、お前のカツラが母親の会社のものであることを一目で見抜いたそうだ。な んとも頼もしい跡継ぎ息子じゃないか」
 ハハハ、と声を上げて笑う。
「あとは簡単だよ。お前のことは顧客リストの『ヘア・メイキング・プラン』に、写 真付きでばっちり載ってた。おかげで俺達は仕事が楽だった」
 親鳥から餌をもらおうとしたまま力尽きた文鳥のヒナのように、村田は口を半開き にして、半ば意識を失った。
 ロマンスグレーは言った。
「相手が悪かったな」

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