悩み

著:こどころ せいじ
貴方は、番目の読者です。

 少年は、看護婦が押さえたドアを億劫そうにくぐり、入室してきた。歳に似合わな い「しわ」を眉間に刻んでいる。
 白髪の老医師は、患者に対するとき専用の笑顔を作り、椅子を勧めた。
「何か、悩みがありそうだね?」
 眉間のしわを取り除こうとかけられた、その優しい声音は、心療内科の殺風景な診 察室にむなしく染み込んだ。
 気恥ずかしさをおぼえ、小さく苦笑する老医師。
 ――これは、少し手強いかな。
出そうになったため息をこらえ、さり気なく少年を視診してみる。
 十五歳……多感な時期だ。床に向けられた冷たい目つき。強く閉じられた唇。僕は こんな所に用はない――少年の表情は、そう言っている。
 悩める顔。
 少々扱いにくいタイプだが、ここに来る患者としては、まず典型的な部類に入るだ ろう。
 その、ふてくされたような表情からすると、おそらく自分の意志に反して、連れて こられたに違いない。本人は、心療内科に来てもどうしようもないと考えている。眉 間のしわは、おそらく頭痛のためだ。悩むことで引き起こされる慢性的頭痛――とま あ、そんなところか。
「悩みならありますよ」
 自分でも忘れていた質問に突然答えられ、老医師は「えっ?」と聞き返した。
「悩みならあると言ったんです」
 神経質そうな感じだ。やけに早口なところを見ると、相当不満が溜まっているらし い……。
 医師は軽く咳払いをし、
「じゃあ、その悩みを聞かせてくれるかい? わたしは、こんな年寄りだけど、力に なれると思うよ」
「力にはなっていただけないと思います」
 内心ムッとしたが、もちろん表情には出さなかった。
「うん、確かにそうかもしれないね」
 つとめておだやかに言う。
「例えば、君が、学校に嫌いな友達がいるから、そいつを転校させてくれって頼んで も、それは、わたしにはできない」
 少年は口元だけで薄く笑った。かまわず医師は続ける。
「――だけど、そういった悩みを人にうち明けるだけで、気分はずっと楽になるよ。
肩の荷がおりたようにね。しかし、心の中に仕舞い込んでいては、身体までボロボロ になってしまう」
心療内科にやって来る患者にとって、もっとも効果的な治療は、薬を使うことでは なく、語らせることだ――老医師は経験からそう実感していた。
 まず、「悩み」というものは、誰でも持っているのだと患者に知らしめ、その心の 負担を軽くしてやる。そして、医者は言うなれば「カウンセラー」に徹し、相手に しゃべらせる。悩むことによる、頭痛などの軽い身体的不調ならば、それで、ほぼ改 善される。
「ゆっくり話してくれればいいよ。別に恥ずかしがる必要もない。悩みのない人間な んていないんだからね」
 わたしにも悩みはある、という言葉を医師は呑み込んだ。「手強い患者が悩みのた ねだ」とはさすがに言えない。
 少年はうつむいたまま口を開いた。
「僕の両親もそういいます。『悩みがあれば何でも相談しろ。人は誰でも悩みを持っ ているんだ』って、言ってくれます」
 医師は頷き、そして納得した。
 つまりこの少年は、両親にも言えない――あるいは、言っても解決できない悩みを 抱えている、ということだ。
 やはり「いじめ」か。
 あとで対面する彼の両親を思うと、少しつらいことだ。
「なるほど。優しいご両親なんだね」
 相づちを打ち、先をうながす老医師に、少年は感情のない顔を向けた。
「はい、優しい両親です。父も母も、僕のことをいつも気にかけてくれます。『悩み はないか?』と、訊いてくれます。ですけど――」
 と、そこで一度息を呑んだ。それはちょうど、自動車のシフトアップに似ていた。
「学校は楽しいし、友達もいい奴ばかり。彼女は可愛くて優しいし、勉強だって自信 があります。それなのに両親は、『そんなはずはない、悩みのない人間なんていな い』って、言うんです。『虐められてないか? 授業について行けてるか?』って、 しつこく訊いてくるんです。悩みなんかない! って何度言っても、『隠すんじゃな い』ってしつこいんです。『悩みをうち明けろ』って毎日毎日僕に迫るんです! も う、僕は気が変になりそうで――」
 唖然とする医師をしりめに、少年は頭を抱え、シフトダウンした。
「――先生、さっき言ってましたよね、『悩みのない人間なんていない』って。そん な風に思いこんでる人に、僕の悩みを取り除くことなんてできるわけがない!」
 久しく絶えていた慢性的頭痛が、ため息をつく老医師の眉間にしわを寄せた。

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