焼き肉の日

著:こどころ せいじ
貴方は、番目の読者です。

「さて、そろそろ行くとするか」
 しわくちゃのハンカチを、五万円ほどの現金と一緒にズボンのポケットに押し込むと、私は玄関へ向かった。心がはずみ、抑えても笑みがこぼれる。
 今日は焼き肉だ。
 五万円あれば、上タン塩を腹一杯食える。ついでにビールとしゃれこむのもいい。
 しばらくインスタント食品ばかりの生活だったからだろう、鉄板の上で焼ける肉の姿を想像しただけで生唾がわいた。
 部屋を出るときにちらりと見えた鏡の中の私は、実にしまりのない顔をしていた。自分で恥ずかしくなり、そそくさと廊下へ出る。

 会社を辞めてからというもの、私の食生活は見るも無惨なものになった。収入がないのだから当たり前だ。まあ、しかし空腹は何とか我慢できる。それは、あくまで自分自身のことだからだ。
 つらいのは、実家から電話が掛かってくることだ。
「あんた、声に元気がないよ。ちゃんとご飯食べてるのかい?」
 母親からそう言われると、心配をかけていることを実感し、インスタントラーメンも喉を通らなくなってしまう。よって、ますます声に張りがなくなる。悪循環だ。
 いったい、電話という文明の利器は、果たして便利な物なのだろうか? 少なくとも今の私にとっては母親を不安にさせるだけの、迷惑な存在でしかない。
 電話。まったくむかつく「奴」だ。
 そもそも、前の職場を去る原因になったのが、「奴」のせいだった。
「電話はコール二回以内に取れ!」
 と、うるさい課長に怒鳴られ続けたおかげで、私はすっかりまいってしまったのだ。
 もともと「突然」というものが苦手である。子供の頃、遊園地でお化け屋敷に入ったとき、目の前に飛び出してきた血みどろの人形に、私の心臓は少し止まった。笑い事ではない。事実、救急車が駆けつける騒ぎになったのだ。
 なんとか蘇生したから良かったものの、そうでなければ、私はお化け屋敷に、本物のお化けとして出現することになっていただろう。
 心臓――これが私のウィークポイントだ。 だから、人は私を驚かしてはならない。驚かされた私は、運が良ければ一瞬頭が真っ白になるだけで済むが、悪ければ、「ヒッ」と情けない声をあげた後、そのままぶっ倒れるのである。
 バカ課長は、それをまったく理解してくれなかった。オフィスの電話の馬鹿でかい音に驚き、心臓が縮んだ私に向かって、
「どうしてすぐに受話器を上げないんだ。バカ!」
 と、大声で怒鳴ってくれた。おかげで私の心臓はますます縮み上がるのだった。
 とてもじゃないがやっていける職場ではない。辞めていなければ確実に死んでいた。まだ、二十代……死ぬには早すぎる
 そういうわけで、現在は、新しい仕事を求めて、いろいろ模索している最中だ。電話を使わない職場を希望していることは言うまでもない。
 まあ、深く考えるのはよそう。今日は「電話」などという悪魔の存在は忘れて、焼き肉を存分に堪能すればいい。久しぶりに動物性タンパク質を大量に接種するのだ。
 だが、廊下を玄関に向かっていた私は、よりによって、その「電話」を視界にとらえてしまった。
(大丈夫だ。鳴らない。心配するな)
 自分の心臓にそう言い聞かせた。が、そういうときに限って、これが鳴るのだ。
「ビロロロロロッ!」
 広い家だ。「奴」はとてつもなく大きな電子音を響かせた。
 私は、真っ白になっていく頭の片隅で、自分の心臓が「きゅーん」と縮んでいくのを意識した。
 復活までには十秒ほどかかったと思う。気がつくと、私は前屈みになり胸を押さえていた。この姿勢はまったく無意識のうちになされたものだ。これも身を守ろうとする本能のなせるワザだろう。
(大丈夫。大丈夫。大丈夫。死んでない。死んでない。死んでない)
 念仏のように唱え、生きていることを確認した。ハアハアと呼吸を繰り返し、唾を飲み込む。
(ちっくしょう!)
 鼓動が落ち着くと、猛烈な勢いで怒りがわいた。「もしもし、俺だ」と受話器から男の声が聞こえて、私は、いつの間にか電話に出ている自分に気がついた。
「誰だこの野郎!」殺されそうになった怒りをストレートにぶちまける。
「……」
「誰だ。てめえ、名を名乗れ!」
「……お宅どちら様?」
「この野郎」頭に血がのぼった。「こっちが訊いてんだ」
「わたしは杉田という者だ」
「杉田? そんな奴はしらん」
「お宅どちら様? わたしは名乗ったぞ。今度はあんたの番だ。名乗りたまえ」
「……」途端に私の勢いは失せた。さて困った。どうするべきか。
「あんた誰だ」
「……」答えないでいると、相手は私が恐れていたことを言った。
「俺の家で何してんだ? え? 今警察を呼ぶから、お前そのまま動くなよ!」
 私は、真っ白になっていく頭の片隅で、自分の心臓が「きゅーん」と縮んでいくのを意識した。
 復活までには十秒ほどかかったと思う。気がつくと、手にした受話器をハンカチで綺麗に拭いていた。大したものである。これも、「身を守ろうとする本能」のなせるワザだろう。
 指紋を拭き取ると、急いで玄関を飛び出す。もちろんドアノブもきれいに拭いた。
 危ないところだった。
 冷や汗を拭き、足早に「杉田邸」を離れながら、
「この仕事もあまり心臓によくない」
 と痛感した。
 まあ、深く考えるのはよそう。今日は焼き肉が食えるからそれでいい。

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